その1

八カ国語を操る男




あれは、台湾の日本人宿に居た頃の話である。私はその頃、初めての海外旅行で勝手がよくわからず、少し混乱していた。その気持ちを静めるためにも、日本人宿と呼ばれている所に泊まって、台湾の情報を集めたいと考えてた。

泊まった宿は、いわゆるゲストハウスという呼ばれている場所である。ここは日本人が経営している宿、というよりも、日本人が建物の一室を借りて、日毎、部屋毎に又貸ししていると表現した方が正しいと思う。


おそらく、台北にある日本人ゲストハウスは、ほとんどこれと同じスタイルではないだろうか。

ある日の夜9時近く、その人はゲストハウスに泊まりに来た。50過ぎの色黒な男性で、少し小柄な体型だった。やけに笑顔を見せていた印象がある。海外の企業で働いている駐在員にも見えなくない。しかし、会社勤めをしているような社会的な印象は、その時からすでにあまり感じなかった。

このゲストハウスは、40歳以上の男性が多く泊まっていた。

私は、このゲストハウスを知るまでは、20代の若者を中心に利用するのが「ゲストハウス」と思っていた。しかし実際は、20代の若者はあまり利用せず、むしろ50代以上の男性の利用者が多かった。しかも高齢の男性達が利用するのは、決まってドミトリー(同居タイプ)がほとんどだった。

この時までは、ドミトリーを利用している50歳過ぎの人に対して、あまり良く思っていなかった。50歳を過ぎてまで、安宿のドミトリータイプで寝泊まりするという気持ちが理解できなかった。


しかし、この感覚はタイで変わる事になる。タイではこれがごく当たり前の光景になってしまうのだ。

このオッサンを便宜上、八さんと名付ける。なぜなら、固有名詞がないと話を進め辛いからである。


八さんはゲストハウスに着いた時から、ある程度出来上がっていた(酒臭いということ)大抵のゲストハウスには、談話室のような共同ルームがある。八さんは、勝手知ったる自分の家かのように、玄関から素早く談話室に移動し、腰を落ち着かせる。私と語学留学生のH君を捕まえ、コンビニで買って来たらしい酒を飲み始める。

八さんは挨拶もほどほどに酒をグビグビ飲み始める。酒を水で割らないまま、本当に美味しそうに飲む。相当な酒好きであることは、誰の目から明らかである。


酔いが程良く回ってきたのか饒舌になった八さんは、ベラベラと信じられないくらいよく喋る。

「台湾に来るまで酒が飲めなくて困ったよ」と話し始める八さん。
「どうしてですか?」、私
「今までインドネシアで仕事をしていたから。ほら、インドネシアはイスラームだから。聞いたこと無い?イスラームの国は、酒を飲むことが出来ないんだよ」
「そうなんですか。日本と違いますね。勉強なります」

この時、私は気づかなかった。実は、インドネシアはアルコールが簡単に手に入る。インドネシアのコンビニでは、お酒を普通に売っている。この時はその事がわからなかった。


八さんの話を簡単にまとめると・・・

八さんの仕事は、大手ゼネコンの人事であること。そして、かなり上の立場であること。しかし、正社員ではなく、派遣社員であること。

その仕事が終わったので、その帰りの途中であること。台湾に来たのは経由便で寄っただけであることを話してくれた。

八さんの口ぶりは、こう見えても俺は偉いんだよというのを暗に匂わせようとしていた。

それから八ヶ国語を話せること(八さんの名前の由来は、八ヶ国語を話せるらしいから)、その語学力を使って、色々な仕事をしてきたこと、大学には行かずに今まで会社員勤めは一度もしたことがないこと等、水を得た魚のように延々と一方的に話をしていた。

突然、「僕は中国語も話せるよ~じゃあ、H君と中国語で話しをしてみよう」と八さんは言い出し、H君を相手に中国語で話し始める。



H君は台湾へ語学留学に来て3ヶ月。H君は大学を卒業後、就職が決まらずに半年間アジアを友だちと一緒に回ったと言っていた。その時、中国に自分の明るい未来を見出したのかもしれない。そして、台湾に中国語を習うべく留学したらしい。

H君は2chを良く見るらしく、2ch用語を日常生活で使うような好青年だった。H君はパソコンに造詣が深いらしく、「パソコンの大先生」と呼ばれてもおかしくないほどのIT知識人だった。そのH君がIPアドレスを知らなかったのはご愛嬌である。

就職活動に対しても、まるで2chの住人かのように厳しい目を持っていた。企業に少しでも悪い面があると、ブラック企業!!!と罵っていた。
サービス残業が、いかに労働効率の悪い働き方なのかというのを、まだ一度も働いた事がないH君に得々と聞かされたのは、今となってみれば良い思い出である。

ーーー 八さんの話に戻して ーーー

八さんとH君は中国語で話し始めた。H君はある程度の日常会話は出来るようで、発音に対して抑揚をつけていた。それに対して、八さんの中国語は抑揚が全くない平坦な話し方、まるで中国語を一度カタカナにして、日本語のように話していた。
正直、八さんの話す中国語よりも、「スワロウテイル」という映画で、江口洋介が話す言葉の方が、よっぽど中国語のように聞こえた。

日本人同士が中国語で会話をするという劇空間は、一分ほどで終わってしまった。なぜなら、八さんが途中で固まり、中国語を話さなくなってしまった。どうやらここで、八さん劇場の第一幕は終わったようである。

私のような素人目から見ても、中国人とガンガン仕事するという八さんの中国語は、あまりにもお粗末な感じがした。本当に仕事で使えるの?それ…

思わず疑問を口に出しそうになった。しかし、虚構と現実が入り交じった「八さん劇場」にしばらく付き合うのも面白いと考えるようになっていた。


八さんは、周りにそう思われ始めていることなど露とも思わない。日本語を解禁された八さんの舌は、ますますヒートアップしていく。

「私は今、フランス語を勉強している。いつも辞書を片手に勉強してるよ。フランス語は少し難しいから、おそらく8ヶ月ぐらいで仕事で使えるレベルになると思う」

辞書に目を通すだけで、フランス人と仕事レベルの会話ができるようになれる八さん。ここまで来ると語学の天才である。その方法を本に書いて出せば大ヒット間違いなし!

「中国語だったら3ヶ月でマスターしたよ」
凄すぎるぜ八さん!辞書を片手に中国語をマスターできるなんて。まるで幕末時代の偉人のようである。もし、それを知ったら語学用の教材を売っている会社が、八さんに殺到するのではないだろうか?

「今、インドネシアに住んでいて妻がインドネシア人なんだよ。でも私は、インドネシア語は話せないけどね」
あれ?語学の天才の八さんが、なぜ奥さんの生まれ故郷の言葉を話せないのだろう?…しかも住んでいるのに?

おそらく常人には理解出来ない深遠な理由が何かあるに違いない…

「実は、インドネシアで一杯DVDを買ってきて…」と話しながら、私とH君にDVDの束を見せる八さん。見せたDVDのパッケージはなんだか貧乏臭い。そ してDVD自体にラベルがない。これってひょっとして〇〇コピーじゃないだろうか?映画やソフトを含めて、数はおよそ30枚ぐらいある。しかし、大手ゼネ コンの人事を派遣でしている「かなり上の立場」の八さんが違法な事に手を染めるはずがない!


「あれ?何でこんなにCADソフトがあるんですか?しかもメーカー違いのが5、6枚ありますけど?」


「あぁ…それは…あぁ~趣味だよ!!!CADが趣味なんだよ!」バツの悪いような顔をする八さん。

CADを趣味にするなんて…語学だけでなくCADの大先生でもあるのか、八さんは!

大手ゼネコンの人事という初期設定が、どこか遠くに飛んで行った気がするけど…気のせいだろうか?

「良かったら買わない?一枚千円位で…」あれ?趣味のCADソフトを売っちゃうの?


「まだ日本に帰らないので要らないです」
「そっか…ところでこのDVD、ひょっとして日本の税関で没収されるかな?」

あれ?いつの間にか八さんが、秋葉原にいる路上の〇〇DVDの売りに見え始めた…気のせいだよな

「多分、大丈夫じゃないですか?(適当)」

「まぁ他の人もやっているから大丈夫だよね~ハハハハ」

「◯信号 みんなで渡れば 怖くない」と有名なコメディアンも言ってるじゃないですか?大丈夫ですよ八さん!!!と弱気の八さん奮い立たせようと、心の中で八さんに語りかける。

「酔がかなり回ってきたよ(笑)久し振りに楽しい酒だよ~ハハハハ」心から嬉しそうな八さん。まるで心の友を得たかのような八さんは、まだまだ話し足りない。
H君は年の離れた人と話をした経験があまりないらしく、ずっと恐縮している。


「今、工場で働いている派遣の人とかいるじゃない?あれなんて私から言わせれば、将来について何も考えてないよ。どこでも通じる技術を持ってないとダメだよ」

「私、日本に帰ったら一月3万円で暮らしているよ。えっ?もちろん家賃が入ってだよ。そんなに驚くことじゃないでしょ?」
ここは聞かなかったことにしよう・・・


「今、私ねぇ~起業しようと考えているんだよ。海外を旅している人の力を集めれば凄い会社になると思わない?どんな会社かって?それは教えられないよ?真似されると困るから…ここでは話せないよ~そうだ!! 起業したら人を募集しないとね」

「良かったら私のメールアドレスを教えるよ。何かあったら相談して」と自分に渡してきたのは、八さんが買ってきた弁当に付いていた割り箸入れの袋にボールペンで書かれたyahooのフリーアドレス。


「今、名刺を切らしていたから」という八さんは、どう見ても名刺入れを持ってそうになかった。



大手ゼネコンの人事の派遣 → 〇〇DVD売り → 社会起業家 と目まぐるしく立場が変わる八さん。この頃になると、初期設定の八カ国を話せるというのは、もう無かったことになっていた。

八さんの独壇場と化した場は真夜中を迎え、残り数分で消灯時間になろうとしていた。ここは消灯時間が決められているのだ。

「じゃあ、もうそろそろ寝ますか~消灯時間だし(もう話に飽きてきたな)」、私
「もうちょっと話そうよ~お願いだから。オーナーが注意しに来るまでいいでしょ?」と今まで保っていた大人の雰囲気がすっかり無くなり、まるで捨てられた子犬のような顔をする八さん。


「もういいんじゃないですか?八さんも明日早いし」
「もっと話がしたいんだよ!!!!!」突然、大声を張り上げる八さん。その後、慌てて「お願いだからもっと話そうよ~」と席を立とうとする私の袖を引っ張る八さん。その顔は笑っているのか、悲しいのか、怒っているのか、八さんの単純そうでいて、複雑な表情の中に、とてつもなく深い孤独を感じてしまった。

日本行きの飛行機が早朝だったらしく、次の日の朝にはもう八さんの姿は無かった。結局、八さんが他にどんな言語を話せるかは誰も知らなかった。

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