理想と現実
彼に会ったのは、香港の日本人宿だった。そこはかなり古くなった1室をカーテンのみで仕切っている簡素な宿だった。普通の観光客なら、おそらくこの宿は利用しないだろう。香港の物価は高く、見どころはほとんど無い。5日以上の滞在は考えていなかったので、それでも自分には問題がなかった。
ある寒い日の夜、香港の観光を終え、宿へ帰った。ふと見ると、一人の男性が談話室で何かを飲みつつ、チョコンと座っている。
「どうも」
と、いつもの習慣で軽く挨拶をする。
「・・・」
彼は薄ら笑いを浮かべたまま、何も反応しない。
ひょっとして中国人かな?と思った。なぜなら、この宿は宿泊代が安いので、他の国の人が割と泊まるからだ 。
「アーユーチャイニーズ?」
「日本人ですよ。中国人に見えました?」
と薄ら笑いを浮かべまま、日本語を話す。
「最近、中国人に間違われるようになったんですよ。香港のレストランに行ったら、中国語で話しかけられるようになったんですよ。自分の話す中国語が上達したからですね~」
と、なぜか自慢気に話す。
中国語も何も・・・アナタ、何も喋ってねーだろ?
「挨拶しても反応が無いから、日本語が通じないと思って、中国人ですか?と確認しただけですよ」
「・・・」
少しムッとした口調で言ったせいか、それから彼は黙ってしまった。
彼は40代前半、体格は大柄で、身長は180センチぐらい。頭髪の前頭部分は・・・とても残念なことになっていた。今後、彼を温水さんと呼ぶことにする。
仕方ない、また出掛けるか・・・と思っていたら、談話室にはもう一人居た。2日前に知り合った日本人女性である。自分が来る前から談話室に居たらしい。しかし物音一つ無かったので、全く気づかなかった。
彼女と世間話をしながら、温水さんを見ると、チラチラと何度も彼女を見ている。彼女が気になるようだった。しかし、話には加わらず、マグカップを何度も口に運んでいる。
それ、もう中身入ってないだろ?と言いたくなる気持ちをグッと堪えた。
そのまま世間話をしていたら、いきなり
「それ違いますよ!」
と、彼女に言った自分の間違いに対して、勢い良くツッコミを入れてきた。温水さんは、「とったどー!!!」と言わんばかりの満面の笑みで、彼女をチラチラ見る。
「ああ、そうなんですか・・・間違って覚えてました」
とこちらが苦笑いしたら
「ところで今の日本についてどう思いますか?」
「へ?」
質問の意味がわからなかった。なんでいきなり日本?しかも、どう思いますか?って何について聞きたいの?温水さん・・・?
「何について聞いたんですか?漠然としていてよくわかりません」
「・・・」
あれ?話さなくなった。またダンマリ?
「日本の何についてですか?政治ですか? 景気の話ですか?外交ですか?スポーツですか?」
「じゃあ・・・景気で」
ファイナルアンサー?ってつい言いそうになった。なんでこっちが4択で聞かなければ答えられないの?俺はみのもんたじゃねーよ
「どうなんでしょう?自分の周りでは、景気の良い話も悪い話もどっちも聞くの・・・」
「今は日本よりも中国の時代ですよ!!! 」
と、テレビに出演している経済学者が、「中国のバブルは崩壊しますよ!!!」と、同じくらい良く使うフレーズを、強い口調で喋る温水サン
って俺の話を聞いちゃいねー!!!
「今の日本はダメですよ!政治が悪いから景気が悪いんですよ!40歳以上の人間は、リストラされるしかないんですよ。今、日本で安穏としている人間は、日本の今後を考えるのが怖いんですよ!!!」
「今後の日本はリストラの嵐ですよ!」
「日本の物作りはもう終わりですよ。40歳以上で会社に必要のない人間は、リストラされるんですよ!!!」
「だから中国で働くしか無いんですよ」
温水さんの熱弁が言いたかったことは、温水さんの年齢が40歳以上で、日本の会社をリストラされた。そして、今は中国で働いていて、話し方が曖昧でわかりづらい、というのが良くわかった。
「40歳以上ってやたら出ますけど、温水さんは、何歳ですか?」
とサラっと聞いてみたら
「何で年齢を聞くんですかー!!!!!」
と顔を少しひきつらせながら、強い口調で言う温水さん
聞いてはいけなかったらしい。意外な反応をする温水さん。オマエは、独身OLのお局様かよ!!!
あーもうメンドくせー
「自分が政治家になって日本を変えますよ。自分にはそれだけの力があります!!!」
えっ?じゃあ、なんでここにいるの?
「日本の政治はダメですよ!!!国民にとって、必要な政策が通らないなんて、政府が腐敗しています。そこがアメリカとは違いますよ!!!」
「アメリカでも色々な問題があると思いますよ?例えば、健康保険の問題とか」
「問題はあるかもしれないですけど、アメリカのやり方が良いんですよ!!!根回しが必要な日本の政治なんて腐っています!」
どや!ワシの勇姿、惚れてまうやろ?と、彼女をチラチラ見る温水さん。しかし、彼女の反応は、限りなく氷点下に近い。そんな話に興味なし!という意志の表れなのか、彼女はパソコンに向かったままで、こちらを見ようともしない。
「根回しと言う悪いイメージに囚われ過ぎなんじゃないですか?裏で意見の調整をするのは、政治や人付き合い、どこにでもあると思いますよ」
「・・・」
また、ダンマリ。そして1分ほど経ってから
「話題を変えましょうよ。嫌だな~こんな話(笑)そんなに政治談議が好きなんですか?」
オマエが振ったんじゃー!!!
しかも俺はほとんど話しとらんわ!
もう面倒くさくなっていた。温水さんの相手をするHPもMPも、もう尽きかけていた。
ーー 逃げるコマンドを選択 ーー
「それじゃぁ、もうそろそろ出掛けます」
「もう少しだけ話をしましょうよ!」
ぬくみずからは逃げられない!!!
「・・・ところで温水さんの職場には、日本人はいないのですか?」
「いますよ。私が働いている広州には、何千人も日本人がいるんですよ」
俺の背中には、広州で働いている日本人が付いている!!!ドーン!!!とでも言わんばかりの口ぶりだった。
「じゃあ、ここで話し相手を探すよりも、職場で友達を作ればいいじゃないですか?わざわざ広州から時間をかけて、香港まで来るのは大変じゃないですか?」
「いやぁ・・・仕事とプライベートは別ですから」
「それだったら、職場が一緒じゃない日本人と友だちになればいいじゃないですか?広州には、何千人も日本人がいるそうじゃないですか?」
「そちらでちゃんとした人間関係を築いた方が良くないですか?」
思わず言ってしまう。あちゃー・・・と思ったけどもう遅い。
『・・・』
返事がない、どうやら屍のようだ・・・
返事がない、どうやら屍のようだ・・・
返事がない、どうやら屍のようだ・・・
・・・
もうこれで終わりだな、しんどかった・・・と思い、席を立ち上がろうとすると
「じ、実は、今日、香港へ来たのは、友だちに会うためで・・・ほ、本当だったら、今日は会社の人と飲みに行く予定だったんです。今回はキャンセルしたんですよ!!」
と言った後、携帯の操作に没頭する温水さん。そして数分後
「い、今、社長からメールが届いたんですよ。「飲み会に参加しないようだけど、体調が悪いのか?」というメールが届きました」
温水さんは、携帯の画面を見てくれ!と携帯を自分の前に差し出す。
あれ?今、自分の携帯で何かを打ってなかった?切羽詰まったかのように、必死の形相で何かを打ってなかった?それ・・・自分で打ったんじゃ・・・いややめておこう。
「私は社長に目をかけられているんですよ」
ニヤっと笑う温水さん。最高の仕事をした男の顔をする温水さん。そして、彼女をチラチラ見るのも忘れない。
「そうですか、それは良かったですね。じゃあ、自分はこれで」
と言って外に出た。温水さんから引き止められることはもうなかった。
そして、自分が温水さんと直接話したのは、これが最後だった。
その後、温水さんはずっと談話室にいたらしい。誰に対してもあの調子で話すので、しばらく経つと誰とも話さなくなった。自分が宿に戻って来た頃には、温水さんは狸の置物のようになっていた。
部屋のオブジェと化した温水さんだったが、風呂上りの女の子に対して、体を動かさず、じとーと粘りつくような目で追いかけていた。その顔が忘れられない。
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